1999年10月3日。その日は危うくぼくの命日となるところでした。10月の1、2両日をかけて化学療法を無事終了。恐れていた吐き気、下痢、劇症膀胱炎等々の恐ろしい副作用にも見まわれることなく、3日の朝を迎えることができました。
この日の朝も平穏に始まりました。異変が生じたのは昼食時です。昼食の牛丼(もちろん無菌室仕様)の臭いにむせ返り、猛烈な吐き気を覚えました。トイレでもどして、食べるのをやめ、ベッドに横たわっていると胸に激烈な痛みが走ります。ナースコールで看護婦さんを呼びますが、彼女も動転している様子です。入室前に何度も調べて、心臓にはなんの異常もなかったのですから。
知らせを聞いた若い医者が何人も部屋に入って来ました。検査のために何やら装置を組み立て始めます。のんきな様子で笑い声さえ聞えます。「この野郎」と思ったのですがもちろん怒る元気はありません。彼らは、手を尽くして調べてはくれたのですが、原因はさっぱりわかりません。
激痛は3時間以上続きました。心臓を万力で締め付けられるような、これまで一度も経験したことのない、凄まじい痛みです。ぼくは早く痛み止めを打ってくれるように頼みます。しかし医者どもは「原因がわからないうちは薬を処方できない」などと官僚的な対応しかしません。「わからない」。「しかし命に関わる状態ではあるね」などと他人事のように話しています。
病棟での主治医の一人は、中村江里子似の女性医師です。彼女の応対は親身なもので、ずっとぼくの手を握ってくれています。美しい女性に手を握ってもらえて死んでもいいという気持ちになるかといえば、そんなことは絶対にありません。結局痛みがはじまって3時間以上たった4時ごろになって、みかねた中村江里子が鎮痛剤を処方してくれました。注射針がさされた時、これで楽になれるという期待と、このまま死ぬのではないかという不安が交錯しました。この薬は良く効いて、その後16時間あまり、ぼくは昏睡しました。目が覚めると嘘のように痛みは引いていました。何より自分が死ななかったことに安堵を覚えました。
医者が「命に関わる状態」というのだから、ぼくはこの時本当に死にかけていたのでしょう。よくいう「幽体離脱」めいたことは起こったような気がします。しかし、「お花畑」はみえませんでした。そのかわり私の頭のなかでは、中島みゆきの「エレーン」の「生きていてもいいですかと 誰も問いたいエレーン」というフレーズが繰り返し、繰り返し、大音声で鳴りわたっていたのです。
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