徳永進医師の主宰する鳥取市の「野の花診療所」で、2年前の4月26日夕刻母が亡くなりました。家業と歌作に捧げた80年の生涯でした。となりのベッドには、父がいます。前の年の5月に脳梗塞で倒れ、その後に末期ガンがみつかったのです。母は、父と手をつないで息を引き取りました。二人がともに過ごした50年を超える時間の重みを感じさせる光景でした。「おかあさんが死んだらわしは殉死する」が父の口癖でしたが、そのことばどおり同じ年の8月に父も亡くなっています。
徳永医師が、慣れ親しんだ「地方勤務医」の職を捨て、終末期医療のための「野の花診療所」を開設したのは2001年のことでした。診療所のHPには、徳永医師の、こんな文章が載せられています。「死ぬのはつらいだろうなー。だったらその時、その横に立っていて、手を握ってあげる仕事をしようと思ったのが高校2年生の時でした。37年が経ってようやくそういう場にたどりつこうとしています」。所在地は鳥取市の下町。徳永医師の志に共鳴する看護師さんと地域の人たちのヴォランティアに支えられた、ベッド数19の診療所です。
高名な作家(講談社ノンフィクション賞を受賞)にして名医(地域医療に貢献した人に贈られる「若月賞」の受賞者)。しかし、実際の徳永医師はそんないかめしさなどみじんも感じさせない飄々とした鳥取のおっちゃんです。母の死が迫っていた時でさえ部屋に入ってくると父に明るく声をかけました。「よ、おじいちゃん!」。患者や家族に向かって説教めいた重たい話は一切しません。どんな時にも笑みを絶やさず、その語り口は常にユーモラスです。
徳永医師は「シュヴァイツアーのような人になれ」と言われて育ちました。後年、彼にユージン・スミスの写真展を開催する機会が訪れます。しかしスミスの映したシュヴァイツアーの写真に徳永医師は、あまり感心しませんでした。「現代の英雄たらんと苦闘していた」(本書158頁)彼の姿が鼻についたようです。他方、コロラドで働く田舎医者、セレアーニを撮った「カントリードクター」からは、凄まじい迫力を感じ取った。「あなたが目指す医者は?」と問われたら、ぼくは答える。『セリアーニ』」。徳永医師の原点を伝える文章です。
死は当人ばかりでなく、周囲にとっても大変なことです。愛する人を失う悲しみには、はかり知れないものがあります。徳永医師は、まず患者さんが安らかに苦痛なく死を迎えることに心をくだきます。そして、臨終の床に家族が揃うことを非常に重視しています。愛する人の死に立会うことで、死という事実を受け容れることができるようになる。そのことが結果として、愛する人を亡くした悲しみからの回復を容易にすると考えるからです。
ここでは別離の時も大切にしてくれます。すぐに地下の暗い霊安室に追いやられるようなことはありません。臨終の時、病室には私たち兄弟夫婦と孫5人が揃っていました。母が好んだという「はちみつレモン」で死に水をとらせます。徳永医師が言いました。「晩ご飯は、おばあちゃんが好きだったもんを外から頼んでみんなで食べてつかんせえ。酔っ払わん程度ならお酒もかまいませんで」。おばあちゃんが大好きだった「梅乃井」のうなぎを食べました。狭い病室で。9人が折り重なるような姿で。さすがにお酒は自粛しましたが。
臨終の直後、孫たちは泣いていました。兄の子どもたちは、そろって浪人留年をくり返し、おばあちゃんに心配をかけました。当時6年生だった桜は感受性の鋭い年頃です。号泣していました。2年生の太郎は、まだよく分かっていないのだと思います。しかし、周りにつられて泣いていました。すると隣室からNHK教育テレビの人気番組「ピタゴラスイッチ」の軽妙な音楽が流れてきます。一瞬桜と太郎は顔を見合わせて笑います。しかしすぐに、「こんな時の『ピタゴラスイッチ』はいやだ」と言って一層激しく泣きじゃくります。桜と太郎がみせた「死のなかの笑み」には、母の死の深い悲しみから大人たちを癒す力がありました。
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